深田光霊宗家プロフィール

教育

大正11年 大分県立竹田中学校に入学。国文学者・歌人の折口信夫博士の愛弟子であった国文教師・植栗与門先生との出会いが、生涯の進路を決めることになる。
昭和2年 竹田中学校卒業。植栗先生の母校・国学院大学高等師範部に入学。国文学を折口信夫(釈迢空)、武田祐吉、漢詩・漢文を新田興、言語学を金田一京助各教授に学ぶ。
昭和5年 国学院大学卒業。
昭和26年 大分県教育委員会教育庁大野地方教育課長として在任中の、9月から3ヶ月間、文部省主催のアメリカ教育使節団による新教育講習会(IFEL=アイフェル)の受講生に選ばれ、九州大学にて研修。
昭和28年 大分県立三重高等学校校長として赴任後間もなく、文部省推薦によりアメリカ・ミシガン州立ウエイン大学に9月から4ヶ月間留学、大学院にて特別研修。

職歴

昭和  6年~12年 新潟県立新発田商業学校教論
昭和12年~20年 大分県立中津中学校教論
昭和20年~24年 大分県立竹田高等学校第一部長(教頭)
昭和24年~28年 大分県教育委員会教育庁大野地方教育課長
昭和28年~34年 大分県立三重高等学校長
昭和34年~37年 大分県立聾学校長
昭和37年~38年 大分県立大野高等学校長
昭和38年~40年 大分県立鶴崎工業高等学校長
昭和40年~45年 大分県立津久見高等学校長、定年退職

この間昭和15年に中津中学で漢詩の校歌を制定(58年には校内 に校詩碑建立)、その後、三重、鶴崎工業、津久見の各校校歌を制定した。中でも、津久見高校校歌は、野球部が昭和42年の甲子園センバツで、さらに同47年夏の甲子園で、それぞれ優勝した際、テレビ、ラジオを通じて全国に繰り返し鳴り響いた。

昭和45年~平成15年 淡窓伝光霊流日本詩道会会長宗家として、本格的な吟詠 普及活動に専念。それまで赴任先各地に発会させてきていた25地区詩道会を さらに50余に拡大し、25000人を超える巨大組織に発展させた。 また、昭和43年の財団法人日本吟剣詩舞振興会(笹川良一創始会長)発会以来、 常任理事として平成7年まで在籍、運営、教本の発刊、吟道大学、大学院の講師 などを務めた。同時に、昭和47年に日本コロムビア吟詠音楽会会長として就任以来、 平成10年の退任まで27年間、全国吟界のまとめ役を務めた。
昭和50年、財団公認九州地区連絡協議会(略称・九連協)が発足するや、議長となり、平成7年まで在任した。


特技

書道十段、日本文化書芸院顧問、審査委員長も務めた
柔 道 六段、講道館柔道
囲 碁 四段、日本棋院允許
漢詩作詩 「碩田吟社」主宰、大分合同新聞社、西日本新聞社の文化講座講師
吟詠道 「淡窓流」家元/「淡窓伝光霊流」創流宗家

表彰

顕彰 昭和15年4月5日 日本吟道奉賛会より特別功労表彰(以後2回)
表彰 昭和49年6月22日 国民芸術文化の発展振興に寄与(文部大臣賞)
褒章 昭和52年11月3日 吟詠芸術普及向上と、後進の育成に寄与(藍綬褒章)
寿像 昭和53年11月23日 郷土文化の向上育成に寄与の頌徳碑
表彰 昭和54年11月3日 日本伝統の芸術文化普及発展に寄与(大分合同新聞文化賞)
表彰 昭和57年11月3日 吟詠芸術の普及と地域文化の向上振興寄与(大分県民文化賞)
受賞 昭和61年1月10日 卓越する吟詠芸術と財団運営功労
  (財団法人日本吟剣詩舞振興会「芸術大賞」)
表彰 昭和61年10月10日 日本吟詠芸術発展高揚に功労(全朗吟最高功労賞)
表彰 平成1年4月29日 永年教育功労(勲四等瑞宝賞)
表彰 平成3年5月18日 「ことばを大切にする会」の会長として、特にNHKその他マスコミの協力を得て全国運動を展開。 10周年記念に当たり特別表彰(文部大臣賞)