深田光霊宗家 吟歴

本名は光(ひかる)、号の光霊(こうれい)は「言葉に宿る霊妙な力」を表す「言霊(ことだま)」にちなむ。
門下生の吟号には、必ず「霊」または「光」の一字が含まれる。

明治43年 2月17日 大分県大野郡上緒方村(現豊後大野市緒方町)に生まれる。母イチヨが民謡、吟詠を得意とする美声の持ち主で、幼時に母の背で聞いたのが詩吟との出合いであった。
大正11年4月 大分県立竹田中学校に入学。近隣には、広瀬淡窓の咸宜園塾に学んで詩吟をやっている人たちがいて、この頃から竹田地方に伝わる淡窓流詩吟に接することになる。
大正13年 中学3年のとき、学校の茶話会で詩吟を披露したのを機に、人前で発表するようになり、満14歳のこの年をもって詩道入魂の記念すべき年と定めた。
昭和2年4月 国学院大学(東京)に入学、漢詩作法を新田興教授、山田立講師の二師に学んだ。
昭和3年 学生詩吟連盟を主宰し、発表大会を開いた。
昭和5年 NHK東京中央放送局から、淡窓流詩吟放送。
昭和9年 新潟放送局からの開局記念放送を契機に、
淡窓伝光霊流の吟風確立。
昭和12年 中津市を発祥の地として中津吟詠会を発会、宗師範となり、淡窓伝光霊流宗家となる。
昭和12年 ラジオ放送適格審査に、連続3回合格。
昭和13年 9月22日 福岡県小倉放送局から、詩吟放送、新聞にて激賞される。
昭和14年4月 放送適格者としてNHK全国放送適格証を受け、随時放送。
昭和15年2月 ポリドールレコードに「静御前」(頼山陽作)を初吹き込み。
昭和32年9月 OBS大分放送の特別企画番組「二豊詩の旅歌の旅」が放送開始。1年間にわたる、 64回の吟詠放送となる。
昭和60年8月 昭和5年のNHK(東京)初放送以来、各放送局から放送し、この年をもって300回を超える。
平成元年 昭和50年以来、NHK(東京)の新年特別テレビ番組で毎年正月2日に吟詠を全国放送。
平成元年まで続いた。
平成7年 昭和15年の初レコード吹き込み以来、レコード、カセットテープ、CDはこの年をもって30本に及ぶ。

国際文化交流

昭和55年 5月15日~5月21日

財団吟剣詩舞訪問団副団長として、アメリカのロサンゼルス・サンフランシスコ両市を親善訪問して海外公演により交流を深めた。

昭和58年 10月22日

国際朗吟文化協会最高顧問として、多年にわたり吟詠普及に努めた功労により全朗協最高功労賞受賞。

昭和59年 10月11~10月15日

訪問団副団長として、第2回アメリカ公演を行ない、サンフランシスコとハワイでの海外公演により友好親善を果たした。

昭和60年 9月15~9月22日

日中友好親善・文化交流のため、108名の訪問使節団団長として、中国政府より準国賓の扱いにより、中国訪問、上海・武漢・北京の文化人と親善交流。

昭和61年 9月10日 ~9月18日

第2回中国訪問を深田宗家が108名の訪問使節団団長として決行。
準国賓待遇を受けて上海・武漢・北京の文化人と友好交流。

昭和62年 10月10日 ~10月18日

第3回中国政府の招請により、深田宗家を団長として九州各県各流の幹部102名をもって、 準国賓待遇で、北京・西安・武漢・上海の文化人と親善交流、特に北京では、中日友好協会の 孫平化(そんへいか)会長を表敬訪問。NHK北京放送局の園田矢支局長の配慮により、親善 友好交流の場を衛星テレビ放送によって、日本本土にも流してもらった。なお、武漢市では、 中国政府代表曽卓(そうたく)副主席をはじめ、武漢大学・師範学苑の30名以上の教授たち との、武漢晴川飯店における文化芸術討論会は特筆すべく、友好親善を深めた。

平成元年 5月21日 ~5月27日

第4回中国訪問を、財団法人日本吟剣詩舞振興会の名により思い立ち、折から、 戒厳令(天安門事件)が出されて危険な中を、中国政府の招請に応えて決行。 国賓待遇をもって上海・北京・西安と親善訪問。特に北京では釣魚台国賓ホテルにて宿泊、 大歓迎の宴、また北京市民族文化ホールでの公演も成功をおさめた。 なお、万里の長城入り口に松の木の記念植樹、西安での財団会詩の詩碑建立も果たした。

信条

今日、日本の吟詠人口は320余万人と言われている。
日本で唯一「淡窓伝」として特許庁の認可(No.1394073号)を得ている、淡窓流宜園調(たんそうりゅうぎえんちょう)の詩吟が、その高雅荘重な吟調の故に全国に普及されていることは 喜ばしいが、目指すところは何よりも学聖・詩聖・吟聖の広瀬淡窓が「敬天温柔敦厚」の詩心を詩によって育成した遺風を万世に伝えることである。